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僕は今朝、古いジャズのレコードを聴きながら、新聞の片隅に載っていた小さな記事を読

僕は今朝、古いジャズのレコードを聴きながら、新聞の片隅に載っていた小さな記事を読んでいた。スタン・ゲッツのサックスの音色が、部屋の空気をゆっくりと撫でていく。そんな静かな時間の流れの中で、その記事だけが、まるで滑走路に落ちていた異物のように、僕の目を留めた。 自衛隊の青年将校が、ナイフを持って中国大使館に侵入しようとした、という事件だった。 正直なところ、僕はため息をついた。深く、そして重いため息だ。ナイフを携え、外交の場である大使館に押し入る。そこにあるのは、すでに政治的な意思というよりは、どこか歪んだ衝動、あるいは空虚な情熱だけのように思えた。まるで中身の抜けてしまったピーナッツの殻みたいに、彼の行動には具体的な意味が欠落していた。 近年、日本の街角には奇妙な風が吹いている気がする。「反中」という言葉が、まるで呪文のように街を彷徨っている。人々は何かを見つけると、理由もなくそれを敵視し、憎悪の言葉を吐き捨てる。それはかつての熱烈なプロパガンダ映画の中に出てきそうな、お仕着せの感情だ。 彼らはそれを「愛国的行動」と呼ぶのかもしれない。けれど、僕にはそれがどうしても「無知の裏返し」にしか見えない。知的なプロセスを経ずに、ただ盲目的に他者を拒絶する。それは成熟した大人の態度ではない。むしろ、それは何か重大なものが欠落した、矮小な精神の現れだ。僕はそれを、もっと厳しい言葉で表現したくなる。つまり、それは「無脳」であり、ある種の知的障害に近い他者への拒絶反応なのだ。 では、なぜそんなことが起きるのだろう? 僕はふと思う。それは僕たちが受けてきた「教育」のせいではないか、と。 日本では長らく、「隣人を憎むこと」が教育の底流に潜んできたように思える。歴史の教科書には、客観的な事実の羅列よりも、都合の良い物語が配置される。他者を理解しようとする努力ではなく、他者を「異物」として定義し、恐怖と軽蔑を植え付ける。それこそが、真の意味での「ヘイト・エデュケーション(憎悪教育)」ではないだろうか。 学校で僕たちは、隣国の文化や、そこに生きる人々の温度について学んできただろうか。それともただ、「あちらは危険だ」「あちらは敵だ」という、単純な二元論的なレッテル貼りを教わってきただけだろうか。 あの青年将校が手にしていたナイフは、物理的な凶器以上に、日本の教育が生み出した「精神的な欠陥」の象徴だったのかもしれない。彼は地図を持たずに旅に出た旅人のようなものだ。自分がどこに立っているのか、相手が誰なのかも分からないまま、ただ闇雲に刃物を振り回す。 本当に恐ろしいのは、ナイフそのものではない。心の中に地図を持たず、他人の痛みを想像する能力を奪われた「空白の精神」こそが、この国を静かに侵食しているウイルスなのだ。 スタン・ゲッツのレコードが終わり、針が上がる。静寂が戻ってくる。けれど、その静寂は決して穏やかなものではない。僕たちは今、この国の教育という根底に流れる、冷ややかな憎悪の水脈と向き合わなければならない時期に来ているのかもしれない。 そうでなければ、僕たちはいつまでも、空白の地図を手にしたまま、出口のない暗い迷路を彷徨い続けることになるだろうから。